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history 中洲歴史探訪

中洲での開業をお考えの方に中洲の歴史を知ってもらい、中洲の魅力を多くの人と語り盛り上がっていただけるように、
半世紀以上中洲で事業をしてきたライングループが中洲の歴史をご紹介いたします。

中洲の魅力を知り、中洲を語り、一緒に中洲を盛り上げていきましょう。

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七代目市川団十郎博多来演の碑

黒田藩の財政逼迫のため白水養禎の案を採用し、浪速の道頓堀をまね、現在の中島町を一大歓楽街に作り上げた。
その賑わいは天保5年(1834年)の七代目市川団十郎が博多のこの地で歌舞伎座を興行し今日の中洲繁華の基を開いた。
市川団十郎は少年期に(暫)を勤め、人々を驚かせた。文化・文政期に頭角を現し、江戸の中心的役者となる。
天保3年(1832年)には古記録を調べ、「暫」「勧進帳」「助六」などから成るお家芸十八番を制定した人物である。
昭和48年3月建立。十代目市川海老蔵書。

七代目市川団十郎博多来演の碑
中島公園

明治時代、この地にあった船着き場から佐賀の神埼米を櫛田神社に備蓄していた。しかし明治43年渡辺与八郎の申請で浜新地先の船着き場が埋立てられ築地町と命名。その後、現在の中島公園と築地町ポンプ場が出来た。又、天保5年には歌舞伎の興行がこの地であり七代目市川団十郎が来演した記念の碑もここに建っている。公園の広さ1.305㎡。

中島公園
旧浜新地石碑

寛政3年(1791年)に埋立て工事を行い、船溜まり場を完成させた。そこに行く袋町を中島浜新地(北の新地)と呼んだ。その後、浪速の道頓堀をまね、ここに一大歓楽街を作りあげた。特に天保5年の七代目市川団十郎の芝居で、浜新地の賑わいは最高潮に達した。しかし金相場が狂い物価は暴騰。政策転換でわずか2年でもとの淋しい場所となった。

旧浜新地石碑
旧中島町石碑

黒田長政が福岡藩を築いてから、福岡と博多を結ぶため,那珂川と博多川に囲まれた河川の北側一部を土盛して(中の島)を築いた。これに橋を架けたのが中島西橋と中島東橋である。博多問屋街西端。之より福岡城下につながる。新聞の発祥の地でもあり、印刷、医学校等、明治文化がここよりはじまる。

旧中島町石碑
中洲國廣稲荷神社

江戸後期、天保年間黒田藩が財政建て直しのため中島浜新地(現中島町)に歓楽地帯を設置。
那珂川寄りに騎馬場。
その周囲に桜や藤を植え、茶屋をつくり中洲岡新地と名付ける。
これが中洲町の始まりとなる。
中洲岡新地の繁栄に伴い天保五年小さな社であった中洲稲荷神社が改装されることとなり、立派な神殿や石灯籠が寄進され、地元有志や芸姑の名前を彫った玉垣もでき、この期に中洲國廣稲荷神社と改められた。
今も中洲唯一の守り神、商売繁盛の神様として諸人の崇拝を集めている。
毎年10月に行われる中洲祭りのおんなみこしは、正式には國廣おんなみこしといい、この神社のおまつりである。

中洲國廣稲荷神社
東西中島橋沿革の碑

慶長5年(1600年)、黒田長政は福岡城,並びに福岡の町作りと併せて福岡と博多を結ぶため那珂川と博多川に囲まれた河洲の北側一部を土盛りして東西約87間(約158m)の中の島を築いた。
これに福岡側から那珂川に架けたのが西中島橋、博多川に架けたのが東中島橋である。
この橋の沿革が刻まれている。昭和36年3月建立。

東西中島橋沿革の碑
市民のことば碑

五章の福岡市民の誓いの言葉が刻まれている。

●自然を生かし、あたたかい心にみちたまちをつくりましょう
●教育をおもんじ、平和を愛し清新な文化のまちをつくりましょう
●生産をたかめくらしを豊かにし、明るいまちをつくりましょう
●カをあわせ、清潔で公害のないまちをつくりましょう
●広い視野をもち若さあふれる市民のまちをつくりましょう

市民のことば碑
福岡藩精錬所跡地

中洲は福岡市における近代文明の発祥の地である。
幕末から明治にかけて近代科学や医学などを学ばせ、ここで実験と製作をした。
その最初の火をともしたのが弘化4年(1847年)の福岡藩精錬所の新式反射炉の炎であった。
武器ガラス、陶器、青貝細工、製薬、写真等あらゆるものを手がけ、放生会の時に売りに出されるガラス製品、博多チャンポンにもその伝統が伝えられている。

福岡藩精錬所跡地
地下鉄どっこいしょ

昭和63年3月吉日完成
製作 小田部泰久
題字 西島伊三雄
都市空間に美術作品としての彫刻を設定する自治体の行政サービス事業。
全国初は1961年(昭和36年)山口県宇部市で始まる。
都市環境の改善が主目的。
この宇部市での成功で全国に拡大する。
現在、全国で10,000点の彫刻を数える。

地下鉄どっこいしょ
原田種夫文学碑

1901年春吉生まれ。九州文壇のリーダー的存在。法政大中退後、福岡詩社に参加、九州詩壇の中心人物。
1938年「九州文学」創刊、その代表作に芥川賞候補作となった「風塵」がある。
その中には当時の中洲の風物や雑然とした情景についても描かれている。
その中に出てくる喫茶店「ウーピー」は、博多文化人のサロンとなった中洲の「ブラジレイロ」である。
店はいつしか若き文学仲間の憩いの場となった。それが縁でその跡地に原田の文学碑が建てられた。
ここにはブラジレイロの思い出の記も併設してある。松本清張や夢野久作も縁があった。
しかし1944年そのブラジレイロは空襲に備え、延焼防止の空白地帯をつくるため強制的に取り壊された。
昭和59年11月建立。

原田種夫文学碑
西島伊三雄氏の壁面画

地下鉄中洲川端駅のエクセルホテル前の通風孔に描かれたタイル画。
電車にちなみ子供が電車ごっこをしている。
よく見ると一番前の男の子の帽子には福岡市営地下鉄のマーク。
その他紐には「てんじんゆき」や「ちかてつ」と書いてあり背景は大濠公園になっている。
右端には制作者西島氏のサインがある。

西島伊三雄氏の壁面画
三人舞子道場

博多人形師小島与一氏作大正三年、農商務省の指名により、当時38歳の小島与ーが作成し、パリの万国現装飾美術工芸博覧会に出店。銀賞入賞したものを3倍に拡大したもの。
作者は後継者育成に尽力、名人と呼ばれ、多くの市民に親しまれた。
平成6年9月建立。

三人舞子道場
旧永楽町石碑

明治初期、春吉橋と水車橋を結ぶ水車橋通り、春吉橋と作人橋を結ぶ作人橋通りの2つの主幹道路の中間一帯は、まだ菜の花が咲き博多京菜や博多茄子などが採れる畑が多かったが、作人橋通りの中程の北側に明治7年大きな建物が出現した。
これが中洲を歓楽地へと動き出す引き金になった芝居所「永楽社」である。
戦後この永楽社に由来され出来た町名が永楽町である。
これを機に春吉橋から作人橋へ抜ける道を通称「芝居所通り」とも呼ばれ、以後中洲の発展の基盤を固めていった。

旧永楽町石碑
思い出の庭石

昭和初期、このあたりは那珂川の清流に接して、多くの料亭が立ち並び生粋の社交場として、博多情緒の中心地でした。
この庭石は、その1軒が設けた茶庭の飾り石で、福岡市の油山に産したものです。
昭和20年6月19日の福岡大空襲の炎をくぐり、現在位置に残されました。
中洲の変遷を見続けた記念の石として、ここに永久保存された。
平成2年7月建立。

思い出の庭石
五足の靴文学碑

川丈旅館前に立つ文学碑。
『明星』を主宰する与謝野鉄幹をはじめ北原白秋、木下杢太郎、吉井勇、平野万里の5人が、南蛮遺跡の探訪を目的にした九州路の旅は紀行文「五足の靴」に綴られている。
明治40年7月から8月にかけて、博多を振り出しに九州を巡遊した。
その第一日の夜をこの博多の川丈旅館で過ごした。
これを記念し建てられた。
日本近代文学に南蛮文学の花が撩乱と開いたのはそれからである。
昭和41年7月31日建立。

五足の靴文学碑
旧作人町石碑

往時、中洲は一面菜の花畑で茄子や京菜などが栽培され、初夏には博多の町はおろか春吉村、住吉村、聖町(天神)一帯に菜の花の香りを振りまいていて「菜香洲(なかす)」とも言われていた。
川端町の作人達はこの畑を耕す為に中洲に出かけていた。
しかし遠回りしないと渡れないのでお金と労力を出し合って自分達の手で橋(作人橋)を作った。
この橋の名前を取って出来た町名が作人町である。
しかし作人橋は昭和28年3月に改築して博多橋と改名し作人の名を消していったのは寂しいかぎりである。

旧作人町石碑
川端飢人地蔵尊

将軍吉宗の時代、六代目黒田藩主黒田継高の時代1732年から3年にかけて日本三大飢饉のひとつ享保の大飢饉がおこった。
全国で264万人、当時の博多地区でも人口の約1/3の6000人が餓死した。この大凶作の主因は虫害·水害·干害·疾害の総攻撃で、この世ながらの地獄相を出現したものである。
この亡くなった無縁仏を祀るため、飢人地蔵尊が作られた。
毎年8月23·24日に施餓鬼供養が行われている。

川端飢人地蔵尊
清流公園

大正11年3月、南新地に「噴泉浴場」が開業した。
その頃向島(住吉)から南新地に渡るのは南新橋だけで、東中洲の最南端に橋を大正14年架橋。
「清流橋」と命名。
その後信濃梅吉により料亭「清流荘」が開業。戦後清流荘跡地は公園として整備され、清流公園と命名された。
春恒例の博多座の歌舞伎俳優の船乗り込みのスタート地点としても有名。
公園の南端には、明治時代の向島遊園地の開園記念碑「高灯籠」が移築されている。
またキャナルシティ博多が夢回廊橋一つで繋がれているため、週末は買い物客の憩いの場所ともなっている。

清流公園
寄進高灯籠

清流公園の南側に建つ重厚な高灯籠(博多町屋寄進高灯籠)は明治30に博多の商人、八尋利兵衛のアイデアで現在の博多区住吉から中洲にかけて作られた遊園地「向島」の開園記念に博多魚市場が施主となり住吉神社に寄進したのがこの高灯籠である。
高さ8m、根張り2m四方、笠石の一枚一枚に寄進者でもある商店名が彫ってあり明治中期の博多経済界を偲ぶ物になる。
笠石に彫り込んだ書体筆法は彫刻技術としても価値があり商都博多の文化財でもある。
昭和29年にこの場所に移築された。

寄進高灯籠
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